2011年05月12日
5月例会の報告
東日本大震災犠牲者のご冥福をお祈り申し上げますと共に
ご家族と被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます
風間重樹市議は、冒頭に東日本大震災に県のボランティア協会に参画する形で出かけた話をした。
その余りの物凄い悲惨な状況をみて、自分の生死を完全に行政にあずける訳にはいかない、その時は住民が一人づつ、どうしたら生きられるのかの最終決断を迫られてしまう。
この静岡においても、当然津波予想は見直されることになり、より強い防災対策が望まれることは言うまでもないが、とにかくより高いところへ逃げた者が勝ちと言う現実は変わらない。完璧な防災体制を築くのは容易ではない。これが個人的な感想と率直に語った。
なお、静岡市政について静清合併は、行政コストの削減には寄与したが、コミュニティづくりはむしろ疎外されている面があるので、それがこれからの課題である。そこでは、やはり住民が行政にパラサイトする意識を捨て、自らの力で立った上で、市政に対峙する必要がある役所側にも住民を手なづけようとする動きがあるので警戒したい。
これら話が多岐に渡ったが質問も数多く出され、特にみらい市民会議メンバーとは、静岡市の災害史がどうして災害想定に活かされていないのか、というような視点での意見交換がされた。内容は、次の通り。
静岡市では、150年前と300年前に起きた地震が特に重要である。
•1854/12/23 (安政元年) 安政東海地震 M=8.4
•1707/10/28 (宝永4年) 宝永地震 M=8.4 → 富士山に宝永山ができた
この時、清水の各地の津波の高さは興津で3m、江尻で4.2m、入江で5.7m、清水で3~2.5m、折戸で2m、三保で3.1~6mとある。(静岡県ホームページ)
ちなみに、この時、四国では、20mを超える津波に襲われている。
http://www.e-quakes.pref.shizuoka.jp/shiraberu/higai/saigaishi/index.html
現在、たとえば三保では、建物2階が、津波避難ビルに指定されている。なぜか?!
ということである。
1896年(明治29年)6月15日に発生した「明治三陸地震」で、38.2mの津波に襲われた場所に、2011年38.9mの津波が来たことがどうして想定外なのか?!
静岡も、150年前に6mの津波に襲われているのに、どうしてその場所の3mを避難ビルにしているのか?!
東日本大震災を教訓にさせて頂くことで、様々な問題が見えてきた。
これを活かすことも、これからを生きる私たちの大切な使命なのではないか。

想定外の地震、と言われるが、過去の災害史を十分に踏まえていない
単に甘い想定を超えたと言うことではなかったのか!?
もちろん、行政の判断は民主主義のプロセスを経ている以上、結果責任は住民すべてにかかるのではあるが、やはりそれではあまりにひどいと思わざるをえない。
過去最大の災害をベースに行政の対策が取られていると市民は信じている。
ところが、予算上、半分くらいのハード対策しかできないというのなら、しっかりそれを教えてほしいものである。また、想定を都合に合わせて、少なく見積もったりしないでほしいものである。
それ(想定に対し予算が足りないこと)をもって、だれも行政を責めたりしないはずである。
今は、情報共有こそ大切になってきている。市民意識も、『行政頼み』ばかりではなく、「判断材料さえ、しっかりそろえてくれれば、あとは市民も考える」となってきている。
東日本大震災が起こってしまった今、行政の不十分な情報提供が、地域の真の姿をぼかし、必要以上に危険をあおったり、市民の適切な自主的避難の妨げになっているではないかという指摘も、会議の中でされた。
今回の会議の参加者(60代後半)が発言し、「先祖から1854年安政東海地震(先述)について聞いている。三保の状況としては~・・・」と具体的な話しが出た。その参加者は、それに続けて「私のように先祖から直接に話しを聞いている者も市内にまだいるはずだ。しかし、こうした話しを聞けるのは、今が最後のチャンスとなってきているのではないか、それを集約して活かすことが求められている」と指摘し、風間市議も大きくうなづいた。
ご家族と被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます
風間重樹市議は、冒頭に東日本大震災に県のボランティア協会に参画する形で出かけた話をした。
その余りの物凄い悲惨な状況をみて、自分の生死を完全に行政にあずける訳にはいかない、その時は住民が一人づつ、どうしたら生きられるのかの最終決断を迫られてしまう。
この静岡においても、当然津波予想は見直されることになり、より強い防災対策が望まれることは言うまでもないが、とにかくより高いところへ逃げた者が勝ちと言う現実は変わらない。完璧な防災体制を築くのは容易ではない。これが個人的な感想と率直に語った。
なお、静岡市政について静清合併は、行政コストの削減には寄与したが、コミュニティづくりはむしろ疎外されている面があるので、それがこれからの課題である。そこでは、やはり住民が行政にパラサイトする意識を捨て、自らの力で立った上で、市政に対峙する必要がある役所側にも住民を手なづけようとする動きがあるので警戒したい。
これら話が多岐に渡ったが質問も数多く出され、特にみらい市民会議メンバーとは、静岡市の災害史がどうして災害想定に活かされていないのか、というような視点での意見交換がされた。内容は、次の通り。
静岡市では、150年前と300年前に起きた地震が特に重要である。
•1854/12/23 (安政元年) 安政東海地震 M=8.4
•1707/10/28 (宝永4年) 宝永地震 M=8.4 → 富士山に宝永山ができた
この時、清水の各地の津波の高さは興津で3m、江尻で4.2m、入江で5.7m、清水で3~2.5m、折戸で2m、三保で3.1~6mとある。(静岡県ホームページ)
ちなみに、この時、四国では、20mを超える津波に襲われている。
http://www.e-quakes.pref.shizuoka.jp/shiraberu/higai/saigaishi/index.html
現在、たとえば三保では、建物2階が、津波避難ビルに指定されている。なぜか?!
ということである。
1896年(明治29年)6月15日に発生した「明治三陸地震」で、38.2mの津波に襲われた場所に、2011年38.9mの津波が来たことがどうして想定外なのか?!
静岡も、150年前に6mの津波に襲われているのに、どうしてその場所の3mを避難ビルにしているのか?!
東日本大震災を教訓にさせて頂くことで、様々な問題が見えてきた。
これを活かすことも、これからを生きる私たちの大切な使命なのではないか。

想定外の地震、と言われるが、過去の災害史を十分に踏まえていない
単に甘い想定を超えたと言うことではなかったのか!?
もちろん、行政の判断は民主主義のプロセスを経ている以上、結果責任は住民すべてにかかるのではあるが、やはりそれではあまりにひどいと思わざるをえない。
過去最大の災害をベースに行政の対策が取られていると市民は信じている。
ところが、予算上、半分くらいのハード対策しかできないというのなら、しっかりそれを教えてほしいものである。また、想定を都合に合わせて、少なく見積もったりしないでほしいものである。
それ(想定に対し予算が足りないこと)をもって、だれも行政を責めたりしないはずである。
今は、情報共有こそ大切になってきている。市民意識も、『行政頼み』ばかりではなく、「判断材料さえ、しっかりそろえてくれれば、あとは市民も考える」となってきている。
東日本大震災が起こってしまった今、行政の不十分な情報提供が、地域の真の姿をぼかし、必要以上に危険をあおったり、市民の適切な自主的避難の妨げになっているではないかという指摘も、会議の中でされた。
今回の会議の参加者(60代後半)が発言し、「先祖から1854年安政東海地震(先述)について聞いている。三保の状況としては~・・・」と具体的な話しが出た。その参加者は、それに続けて「私のように先祖から直接に話しを聞いている者も市内にまだいるはずだ。しかし、こうした話しを聞けるのは、今が最後のチャンスとなってきているのではないか、それを集約して活かすことが求められている」と指摘し、風間市議も大きくうなづいた。