2011年08月22日

戦争【知らない世代】と【知る世代】が語るシンポジウム 報告

満州から引き揚げ話

2011年8月15日(月)18:30〜20:30

戦争を知らない世代が体験者から聞く。そういう趣旨で、終戦の日に、満州帰りの栗山 満子氏からその前後の日々、さらには引き揚げ話をしてもらった。栗山氏は、自らの体験を著作にもしているし、現在は『九条の会』で日本の平和運動にいそしんでいる。
 抽象論ではなく、あくまでも自分がした満州生活を具体的に語ってくれた。中学二年までいて、昭和22年に引き揚げ船で帰国している。
 新天地を求めた父親が運良く満鉄に職を得てから、そこそこ安定した生活を続けていた。それは水洗トイレだったり、内地より恵まれていたかもしれない。冬はスケート、春先からは花見見物などとのどかな日々だった。戦局が厳しくなり出すと、先輩たちの格好良い姿からやりたかった薙刀の稽古はなくなり、エイエイと突き刺す銃剣術の練習に変わってしまった。そして敗戦、事態は一変した。
 満鉄の官舎は中国人に明け渡すことになり、何と彼らはまだ引っ越し前に五家族も闖入してきた。それも向こうの習慣で土足のママ上がってきたから参った。それだけ現地の人々は貧しい生活だった。日本人は一等国、満人、鮮人、中国人などは四等国民といった世界がひっくり返ったのだ。
 日本人だけ固められた集団生活になり、何が怖いといえばロシア兵による収奪だった。鍵を3つも4つも掛けていても引き千切って侵入してくる。部屋を荒らし回り、めぼしいものを持ち去る。二度襲われたが、その時は生きた心地がしなかった。かわいそうだったのは翌朝旅立つ家族が荷物をまとめていたところを襲われたケースだった。まさにすってんてん。
 幸運にも父親がカメラマンだった前歴が生きて、ロシア兵の母国に送る写真を撮ることで生計が立った。そうでなければ家族は路頭に迷っていただろう。それも後で考えたことで、当時はただ必死だった。だから引き揚げが決まり、帰国となり安堵した。
 でも帰国の旅は惨澹たるもの。引き揚げ船は半畳のスペースに家族6人が押し込められ、横にもなれず、不自然な姿勢を続けるしかなかった。ただ日本に帰れると我慢できた。
 さて話が終わり、聞き手の若もの世代から発言が続いた。その中に満州に向かった日本人は北海道開拓のような気持ちだったのか、という下りがあった。すると在日の夫婦、それも従軍慰安婦救済活動に携わる参加者から痛烈な異議申し立てが出た。トンでもない。方や侵略ではないか。満州には先住の人々がおり、日本人はその土地と生活を奪った。これが歴史だ。その謝罪の念のない昔話は真の語りでない、と猛烈な剣幕だった。以後この発言の賛否が続いた。
 意外だったのは年寄りは謝罪派であり、若者たちが自虐史観拒否だったことだ。もちろん偶々だったのだろうが、興味深った。
(世界史的には、北海道開拓だってアイヌ人にとっては侵略であり、遂には滅亡してしまった。アメリカはインディアンを、オーストラリアではアポリジニを、イスラエルはパレスチナをだ。実際のところ日本が引いたら満州は先住民たる満人のモノにならず、中国として漢族が支配していたという考え方も根強い。歴史には、色んな見方がある。)

 色んな見方もあるが、歴史をキチンと知ろう。それぞれに平和を希求する機会となるシンポジウムとなったようです。

文章I、編集N

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Posted by みらい市民会議 at 23:34│Comments(0)開催内容の報告
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